人は何かを探して旅をしているもの。
射手座は「ここにはない」というが、魚座は「ここにある」という。
対向の乙女座も「ここにある」というが、そのベクトルが違う。
自身が帰属する場所の救済や奉仕が目的なので「ここにはない」ものを求めない。
「まずここ」のオーガナイズを求める。
乙女座はなぜ「ここにある」のか?
もくじ
「6」と乙女座について

乙女座は6番目の星座。
「6」という数字で示されるものは六芒星。
すなわち男性性と女性性の統合。
「環境適応力・従属能力」「他者との関わり方」
「他者や職場のような場所で空気を読めるかどうか」
「職場のような社会で成長できるかどうか」。
自分が飛び込んだ環境でいかにして折り合いをつけるか。
他者と交流して、求められたものをどのように投げ返すか。
外的環境からの反射能力があるということ。
六芒星は「水」という漢字に似ているので、
水は受容的な意味合いがあることから、
そこからも6は受容の数字になります。
乙女座や6ハウスはある種の反射神経に鋭敏であるということ。
「女」と明記されたサインであるので女性性を窺わせるところは明白。
このように数字の意味を紐解いてみると
乙女座というのが需要あっての行動、受容的なのが伺えるところです。
外からの刺激に対して打ち返す、そうすることで反応力が磨かれる。
その反応力というところで健康であるとか、職能であるとか、
そういったところがテーマになるのでしょう。
自分という物が明確になりにくい

乙女座というと中々自分というものを明確に押し出さないところ。
ゆえに「自分」という物が中々見えてこない。
地の星座になってくると
「ここにはない」という概念がどうでも良いようになってくるような感じ、
それゆえかもしれませんが。
「ここにはない」と思って動いている人たちを
「羨ましい」と思うことはあるかもしれないが、
あくまで「私の世界」「私の仕事」がまず最優先なところが乙女座。
射手座の次の山羊座においても、自分の足元の社会に目がいくようになって
その社会の向上という目標が生まれるので
「ここにはない」というところは見えにくい。
何かに帰属するということは「何のためにやるのか」
という感覚が欠けがちなところでもあるのです。
6は女性的な数字でもあるので投げ返すのが仕事になるところ。
しかし相手から投げられたボールを打ち返していくうちに
だんだんそれで忙殺されていく。
普段の仕事だけでなく日常生活も回さねばならない、
そうしたうちにだんだん「自分」が見えなくなってくる。
やがて「自分を出せ」と言われた時に、それが出せなくなる、
ということもままあるのではないでしょうか。
知らずのうちに打ち返す必要があることがたくさんあることに満足している、ということが。
ケーススタディ・行動的であるが「手放し」が困難と感じる友人
私の高校時代からの友人で乙女座の人がいるのですが
何かしら自分の中のレールを理由にかこつけて
実家を出なかったり、給料アップのために転職したいと言いつつ
今の会社に恩がある、と言って会社辞めなかったりという人がいます。
太陽とスクエアになってる天王星を生かせばもっと上にいけると思ってるんですが…
まぁ要するに一線を超えてはいけないと思ってる部分があるが、
どこに一線が引かれているかというところだよね、と。
彼は乙女座であるが太陽1ハウスのために
仕事が寝る場所が目まぐるしく変わっている人。
まぁそういう意味だと必要なものは「ここにある」んだろうな、探しにいくこともない。
「これをやりたい」という本能の部分を除かせつつも
何らか理由をかこつけては一線を死守したがる部分、この両面での葛藤を抱えているような感じ。
乙女座の「超えてはならない一線」を超えさせる魚座の「本能」

乙女座というのは「ここにある」というのもそうだけども、
そこに敷かれているレールを大事にしたい思いが強いというのかな。
それを大事にすることに誇りに思うこともあれば、
踏み越える恐れもあるというかな。
「ここにある」派であるが「ここしかない」と
本能の部分をフタして割り切っているところもあったりする。
乙女座のその本能を覚醒させてくれるのが対向側の魚座。
これまで見なかったふりをしていた物、
己の衝動というのが見えてくるようになる。
自らに任じられた役割と本来のあり方を求めたい本能が等分で統合することで
「本来の自分」という物が見えてくるでしょう。
総括

自分なりの「なぜやるのか」
という理由を得られることができるかどうかで
生き方は大分変わってきます。
乙女座も6ハウスも強いほど「何のためにやるのか」という大局的視点に欠けがちで
投げ手側にその辺りを大いに委ねることになる傾向はある。
それを発注側に丸投げせず、いかに自分の「本能」を取り戻した上で
「自分とは何か」が見出せるか。
そのことで「超えてはならない一線」は実は超えてもよかった、と気づけることになり
「ここにある」という本当の理由に気づくこともできるでしょう。
